2016年07月29日
東信州・中山道(塩名田宿~岩村田宿)
2 コース 塩名田宿~岩村田宿
3 所要時間 2時間30分 約6㎞
(クリックして大きくして見てください)
小諸への分岐、善光寺道標
佐久市岩村田は、平成の初めまで市街地を離れると、のどかな田園地帯が広がっていましたが、上信越自動車道、北陸新幹線の開通により縦横の道路が建設され大変貌を遂げています。
岩村田宿は江戸時代に中山道の宿駅が決まり発足しましたが、小諸へ通じる脇往還北国道(善光寺道)、甲州へ通じる佐久甲州街道、上州下仁田へ通じる下仁田道の分岐点として米穀の集積地として物資輸送上の要衝地でした。今は宿場の面影がほとんどなく、道標、道祖神のみがかつての面影を留める程度でした。本陣の代わりをつとめた西念寺は、屋根に内藤家、徳川家の家紋、仙石家の家紋「永楽通宝」が掲げられ威厳に満ちていました。由緒ある寺は品格を兼ね備えているものだと思いました。
2016年07月25日
伊那街道てくてく旅(信濃川島~宮木宿~伊那松島)
2 コース 信濃川島駅ー上島普門院観音堂ー徳本水
宮木宿ー春日街道交差点ー松島追分道標ー伊那松島
3 所要時間 約5時間 約14.5㎞
(クリックして大きくして見てください)
道標
JR信濃川島駅から程なく、辰野町上島区の普門院観音堂で重要文化財の「木造十一面観音立像」を見学しました。この仏像は仏師・善光寺住僧妙海作で緻密なカヤ材の一木造りの秀逸で、今を去ること650年ほど前の鎌倉時代末のものでした。片田舎の上島区の皆さんの保存活動に対し敬意を払い地域の宝物に合掌しました。辰野町今村の湧水「徳本水」は、岩間から湧き出る霊水で、炎天下の中でありがたい清涼水でした。宮木宿は残念ながら宿場の面影はほとんど残っていませんでした。伊那街道と春日街道(飯島町七久保から箕輪町大出)が交差する箕輪町大出交差点は、庚申塔が沢山残っていて民間信仰の一端を見る思いでした。箕輪町松島の追分は、松本と諏訪の分岐点で、趣のある立派な道標が残っておりました。
今回は、国道153号線を何回も横断する街道でしたが、前回と同様、中馬街道を強く印象づけられました。
善光寺街道協議会主催 参加者40名。
2016年07月17日
東信州・中山道(岩村田宿~小田井宿~追分宿)
2 コース 岩村田宿~小田井宿~御代田一里塚~追分宿
3 所要時間 4時間 約11キロ
(クリックして大きくして見てください)
一里塚
岩村田宿から追分宿は標高差が300メートルあり、ゆるい登りが続く街道でした。中間の小田井宿は、旅籠がわずか5軒ほどの小さな宿場で、大名の参勤交代は追分宿に宿をとり、小田井宿は姫君など女性が休泊したことから「姫の宿」と呼ばれました。本陣、問屋、旅籠は往時の姿を留めており静かな雰囲気の宿場でした。御代田の一里塚は、街道より7メートル離れた畑中に位置し遺存状態が良く、シダレザクラが植えられた珍しい一里塚でした。
2016年07月15日
東信州・中山道(追分宿~沓掛宿)
2 コース 追分宿~借宿間の宿~沓掛宿(中軽井沢)
3 所要時間 1時間45分 約5キロ
(クリックして大きくして見てください)
右北国街道、左中山道
追分宿は中山道と北国街道の分岐点に位置し、参勤交代の大名や善光寺参詣の旅人などで賑わっていました。現在は街道の雰囲気はありますが江戸時代の建造物は少なかったです。追分の分去れは、常夜灯、道標などの石造物が残っていて往時を偲ぶことができました。沓掛宿は地名が中軽井沢と代り、宿場を感じるものはありませんでした。両宿場は江戸時代に軽井沢宿を加え「浅間根腰の三宿」と呼ばれていましたが、現在と同様に隆盛していました。
馬頭観音の供養塔を道中で多く見かけましたが、これは軽井沢が標高1,000mの高冷地で寒冷地であったこと、さらに碓氷峠を控え物資運搬が困難を極めたためと思います。
2016年07月13日
東信州・中山道(望月宿~八幡宿~塩名田宿)
2 コース 望月宿~瓜生峠~八幡宿~塩名田宿
3 所要時間 2時間30分 約7キロ
(クリックして大きくして見てください)
瓜生坂標識 百沢「祝言道祖神」
「舟つなぎ石」
望月宿から鹿曲川を渡ると瓜生峠となります。「坂がきついから気を付けて」と古老から激励されましたが、木々のまにまに中山道の匂いがいっぱい感じられ気分よく歩くことができました。旧望月町の百沢には珍しい「祝言道祖神」がありました。男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像で宮廷貴族風の衣装をまとっています。道祖神発生地の安曇野地方は、神々の装束像が通例であり類例のないめずらしい貴重な遺産です。八幡宿は千曲川の西岸に宿場が作られ、塩名田宿は東岸の川沿いに作られました。両宿は千曲川の氾濫による川止めで旅人の足が止められるため重要な役割を果たしていました。川越は想像以上に大変だったと思います。千曲川の中に面影を残す「舟つなぎ石」がありました。石の上部に穴を開けて船を繋いだ大岩で、「船橋」方式により渡川を確保し9隻を繋いだとのことです。
八幡宿では中山道を日本橋から歩いてきた4人組に会いました。素晴らしい男性仲間です。
2016年07月05日
北国街道(田中宿~海野宿~上田城)
2 コース 田中宿~海野宿~大屋~上田城
3 所要時間 4時間 約11㎞
(クリックして大きくして見てください)
海野氏の氏神
卯建(中央の家) (用水が流れる)
東御市の田中宿は、戌の満水の土石流が宿場を襲い壊滅的な被害を受けました。現在は田中宿本陣門、戌の満水供養塔、勝軍地蔵(善光寺地蔵と刻まれる)などに面影が残る程度です。偶然にも脇本陣をつとめたお店でお茶と昔話のご接待をいただきました。
隣接の海野宿は、田中宿に代わって本陣を勤めるようになりましたが、東信濃随一の豪族・海野氏の城下町で交通・商業の中心地でした。町並みは妻籠宿、奈良井宿につぐ当県3番目の重要伝統的建造物群保存地区に選定され「日本の道百選」に選ばれております。江戸時代の出梁造りの建物、明治以降の蚕室造りの建物が調和し、歴史の香りが残る県下随一の宿場建造物で美しさは際立っています。特徴は海野格子と卯建(うだつ)と出梁(だしはり)で卯建は防火壁の役割を果たし富裕の家の象徴で、逆説の「うだつがあがらぬ」という言葉が生まれました。
2016年07月02日
東信州・中山道(芦田宿~茂田井宿~望月宿)
2 コース 芦田宿ー茂田井宿ー大伴神社ー望月宿
3 所要時間 2時間30分(見学含む) 約6㎞
(クリックして大きくして見てください)
立科町の芦田宿から浅間山を東にみながら「間の宿」の茂田井を訪ねました。宿場は江戸時代の面影が色濃く残っていて、民家や造り酒屋、道路わきの水路から安らぎと癒しをいただきました。佐久市の望月宿は、かつて朝廷に名馬を収めた駒の産地で、本陣、脇本陣、旅籠が軒をならべていたとのことです。当時の面影は少なかったです。その中で真山家は当時の姿を伝えた出桁作り建造物として国の重要文化財に指定されています。
望月歴史民俗資料館で思わぬハプニングがありました。館内にいた先生が、尺八による「小諸節」をご披露してくださいました。家内と二人だけに演奏いただき恐縮しましたが、名人の尺八は炎天下道中に一服の清涼感でした。小諸節は江差追分節に通じる追分節の原型とか。