2019年05月31日
仁科街道(千国街道)てくてく旅(松本市神林町神道標~松本市島内長尾道の渡し舟場跡)
2 コース 松本市神林町神道標~島立北栗道標~島内小柴~
島内高松南部公民館道祖神~島内長尾道の渡し舟場跡
3 所要時間 合計4時間(2日) 約10㎞
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神林町神道標~島立北栗道標~島内小柴
(5・25 2時間30分 約6㎞)
神林町神道標から北の町神公民館そばに山の神と石造群の立て札があります。説明書きに「山の神は山を守り山を掌る神で農事の季節になると山を下り、里の神・田の神になる」と書かれ、御嶽大権現、二十三夜塔、馬頭観音などの石神仏像が祀られていました。森羅万象の祈りが伝わってくるような気がしました。その先の同町内には「旧上神林村高札場」がありました。松本市特別史跡になっていて「高札場は千国街道沿いにあり……云々」と書かれていました。さらに北の鎖川には、梶海渡橋、千国橋、仁科橋があり橋名に街道名が付けられていました。親近感と共に仁科街道をさらに実感しました。島立南栗公民館の道祖神には「道祖神は郷倉屋敷添いの南北に通じる仁科道に面し……云々」と書かれていました。さらに北の島立北栗交差点にも道標がありましたが、字は残念ながら削られておりその内容は不明です。
島内小柴~島内長尾道の渡し舟場跡
(5・26 1時間30分 約4㎞)
島内小柴から国道158号線を横断し日本浮世絵博物館、松本筑摩高校、高松寺へと続きます。島内高松南部公民館には道祖神、庚申塔などの石造物群が、島内高松本村公民館そばには道祖神、二十三夜塔などがありました。その先の長尾道には、かつて梓川を舟で渡った「長尾の渡し舟場跡」があります。松本の島内高松から安曇野の上真々部を結ぶ渡し場で糸魚川街道と合流しました。
2019年05月30日
仁科街道(千国街道)てくてく旅(塩尻市洗馬宿~松本市神林町神道標)
2 コース 仁科街道は洗馬宿から分かれて3ルートあります
①朝日村から山形・波田に抜ける山沿いルート
②奈良井川左岸を進む川沿いルート
③岩垂から今井を通る中央ルート
今回は②のルートを歩きました
塩尻市洗馬宿~琵琶橋~本洗馬~岩垂道標~
松本市笹賀今村道標~笹賀神戸~神林町神道標
3 所要時間 合計4時間(2日) 約10㎞
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「左仁科道 右松本道」
洗馬宿常夜燈~琵琶橋~本洗馬~岩垂道標
(5・23 所要時間 2時間 約5㎞)
仁科街道は中山道と善光寺街道が分岐する洗馬宿から北西へ行きます。奈良井川に架かる琵琶橋を通過し本洗馬、岩垂へと続きますが、琵琶橋のたもとに馬頭観音等の石造物群が、本洗馬には由緒ある東漸寺の古木の桜、長興寺の美しい庭園、江戸時代の文人・菅井真澄が逗留した釜井庵などがあり集落とマッチし見所が多いです。岩垂地区はかつて一村をなし天領(幕府領)と私領(高遠領)に分けられていましたが、両方の名主から等距離の位置に塩尻市唯一現存の高札場があります。岩垂は農村地帯ですが豪壮な建物が多く威厳を感じました。集落のはずれに「左仁科道、右松本道」の道標と道祖神がありました。仁科街道を示す重要なもので面影を身近に感じることが出来ました。
馬頭観音他
「右今井道 左神戸道」
松本市笹賀今村道標~松本市神林町神道標
(5.24 所要時間 2時間 約5㎞)
松本市南部の奈良井川沿いの一番外れの集落が松本市笹賀今です。町会の公民館前の辻に「右松本道 左大町道」の道標がありました。道標の大町道は仁科街道を表すもので道祖神が彫られていました。この先の上小俣、下小俣には人馬の往来があった証の馬頭観音、道祖神が結構残っていました。さらに先の笹賀神戸には切妻屋根に「雀おどし」の棟飾りの付いた本棟造りの豪農屋形が数多くあり驚きました。史跡案内板によれば中世のころから「神戸の舘」はあったとのこと、歴史と風格が漂っていました。さらに北へ行くと神林町神の三差路に「右今井道 左神戸道」の道標がありました。道標は小さいですが笹賀神戸から洗馬へ通じる道しるべであり旅人にとっては大切なもので、見つけることができ嬉しかったです。
2019年05月09日
北国街道東脇往還(松代道)てくてく旅(須坂市福島宿~長野市長沼宿)
2 コース 須坂市福島宿~村山橋~長沼宿
3所要時間 1時間45分 約4㎞
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福島宿(須坂市)と長沼宿(長野市)間は、かつて千曲川の「布野の渡し」(柳原)を渡っていました。現在は鋼鉄の橋、村山橋を渡り堤防沿いに長沼へ行きます。長沼宿南入口に宿場独特の桝形が残っていました。10mほどの小高い土塁上に秋葉社を始めとする4基の石詞が祀られています。長沼は平安時代から有力な豪族が治めており、北側が城下町、南側が宿場町の顔として存在していましたが、現在はリンゴ畑になっていて城下町としての面影はまったく無く城址跡に大きな欅と碑がある程度です。南側の宿場町は旅籠がなく本陣が旅籠を兼ねており本陣の西島家には長屋門の面影が、問屋を努めた向かいの丸山家の門には天井部分に往時の駕籠が保存されており宿場風情は感じられました。印象深かったのは林光院門前にあった道標「右ハゑちこ道 左ハせんく王うし道」と刻まれていた江戸中期の古碑でした。小さな道標でしたが懐かしさと優しさを感じました。
2019年05月06日
北国街道東脇往還(松代道)てくてく旅(長野市川田宿~須坂市福島宿)
2 コース 長野市川田宿~川田領家~綿内追分~須坂市福島宿~村山駅
3 所要時間 3時間45分 約9㎞
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長野電鉄須坂駅の駐車場に車を停め屋代行きバスに乗車し川田駅で下車しました。
川田宿の西端に下組秋葉社が安置されています。この秋葉社は高さ2.5m位の自然石の上に据えられており火防の神として宿場を守っています。同じような高さの祠が隣接地の川田領家にもありました。高い所に据えられているので違和感を覚えましたが、実は川田宿は宿場が定められてから五度にわたり千曲川の水害に遭い宿場の位置が変遷したとのことです。秋葉社も水害から守るため高い位置に祀られるようになったと推察しました。福島宿は東脇往還と大笹街道が交差し、 千曲川通船「布野の渡し」もあり交通の要衝として栄えました。本陣兼問屋の竹内家、丸山家の入口の長屋門と両脇の荷蔵は見事で荷物の取り扱いが多かったことを物語っています。布野の渡し(柳原)は北国街道の矢代、丹波島が川留めになっても流れが緩やかだったため川留めにならず別名「雨降り街道の渡し」と言われていたとのことです。このため特に雨の日の福島宿は旅人たちで賑わっていたとのことです。福島宿北端に三面六臂馬頭観音がありますが、大変珍しい像容で県内街道歩き千キロ踏破した中では3カ所目の発見でした。須坂市のお宝石造物と言って良いと思います。
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2019年05月04日
北国街道東脇往還(松代道)てくてく旅(長野市松代~川田宿)
2 コース 長野市松代~荒神町道標~鳥打峠~禅福寺~関崎の渡し跡
~川田宿
3 所要時間 2時間45分 約7㎞
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松代藩七渡し一つの常夜燈

長野電鉄松代駅に車を停め令和初のてくてく旅に出かけました。松代の城下町は町八町と呼ばれる町割りで西の博喰町から北の荒神町までを町八町と呼んでいます。北国街道東脇往還(松代道)は荒神町追分から北東へ進み山間を縫うように行きます。追分に昭和初期に建てられた道標碑があり、左…長野市、右…須坂、中野町と刻まれていました。街道は緩やかな坂道で新緑を味わいながらの峠越えでした。松代藩の刑場跡と言われる鳥打峠を越えると飯縄山、妙高山、高妻山、後立山連峰が現れ残雪の美しい山脈を仰ぎ見ることができました。街道は高速道路と並行しており右手の山際に、屋根に六文銭の紋が入る禅福寺の重厚な本堂が、さらに進むと川田宿と川中島平を結ぶ関崎の渡し跡があります。この渡しは松代藩七渡しの一つで常夜燈が往時の賑わいを偲ばせていました。川田宿は典型的なコの字形を示し、中央に本陣兼問屋(西澤家)、東西に火防の神である秋葉社に守られ古い宿場町の面影を留めていました。