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2017年06月30日

伊那街道(飯島宿~清泰寺(松川町))

1 期 日 平成29年6月27日(火)
2 コース 飯島陣屋ー慈福院(飯島町)-清泰寺(松川町)
3 所要時間 5時間(昼食、見学含む) 約10キロ
(クリックして大きくして見てください)
 飯島町、飯島陣屋

 飯島町慈福院
               守屋貞治作・延命地蔵菩薩
松川町清泰寺
               徳本上人名号塔
 駒ケ根市安楽寺
               徳本上人名号

 江戸時代に幕府が直接支配した領地(天領)に置かれた役所の飯島陣屋を見学しました。信濃の国の天領は、南信の飯島、東信の御影(小諸市)、北信南部の中之条(坂城町)、北信北部の中野(中野市)の4カ所の陣屋が中核を担いました。飯島宿は約1キロに及んでいたとのことですが面影はありませんでした。                 

 飯島町慈福院には高遠の石工・守屋貞治作の延命地蔵菩薩が、松川町の清泰寺には徳本上人名号塔、徳本大行者座像がありました。今年は徳本上人の200回忌にあたります。 参加者 23名

徳本上人について

 江戸時代にとびぬけて優れた念仏僧で、生涯を修行と念仏布教活動に身を捧げ、皇族、将軍家、諸大名、一般民衆まで多くの人から信仰された。徳本上人が書かれた名号文字は速書きで、丸みをおびた特徴がある。お説教は法然上人の一枚起請文にある「ただ往生極楽の為には南無阿弥陀仏と申して疑いなく」日々お念仏を唱えることの重要性を説いた。木魚と鉦を激しく乱打して皆でお念仏を称える独特の念仏。


  


Posted by シオン120 at 17:05Comments(0)点の記・てくてく旅

2017年06月30日

伊那街道(宮田宿~飯島宿)

1 期 日 平成29年6月26日(月)
2 コース 宮田駅ー赤須上穂宿ー安楽寺ー聖徳寺ー飯島宿
3 所要時間 5時間(昼食、見学含む) 約10キロ
(クリックして大きくして見てください)
 宮田村大田切橋
                高遠領界碑
高遠石工・守屋貞治作
               安楽寺如意輪観世音
高遠石工・守屋貞治作 
               不動明王(小町屋光前寺道標)
飯島町聖徳寺
               大型名号塔(六斗名号塔)

  街道は田切地形の河岸段丘上にあり、洪水時には川が氾濫し橋が流され渡河に大変苦労したとのことです。大田切川は天保3年(1832)に1年間で8回流された記録があり伊那街道有数の難所でした。

駒ケ根市の赤須上穂宿(赤須村と上穂村の境に伊那街道が整備され15日ごとに交替で伝馬荷の継送りを担った合宿)の中心部にある安楽寺と駒ケ根市の如来寺、飯島町の聖徳寺には今までに見たことのない大型名号塔がありました。深堀された名号塔は、一字に米が一斗入る六斗名号塔(南無阿弥陀仏)で見事です。安楽寺には高遠の石工・守屋貞治36歳初期作の文字碑庚申塔と個性的な如意輪観世音と墓地には井筒屋の地蔵尊があり一見に値します。山門前には徳本上人信濃巡錫時の名号塔があります。 参加者 23名


  


Posted by シオン120 at 15:18Comments(0)点の記・てくてく旅

2017年06月02日

権兵衛街道(萱ヶ平~権兵衛峠~北澤合流点)

1 期 日 平成29年6月1日(木)
2 コース 木曽町日義萱ヶ平ー権兵衛峠ー合の沢観音ー鍬入岩ー
       茶屋跡ー七曲ー北澤合流・遊歩道入り口
3 歩行時間 3時間30分 約8㎞
4  主 催 NPO法人 木曽川・水の始発駅 参加者20名
(クリックして大きくして見てください)
 権兵衛峠街道 

 萱ヶ平上部の石造物群(牛供養の大日如来)

伊那用水路跡(木曽山用水)、峠から少し入った所

権兵衛峠山頂・古畑権兵衛碑

 権兵衛街道は、伊那と木曽を結ぶ権兵衛峠を結ぶ街道で、木曽日義村神谷の牛方・古畑権兵衛が、木曽11宿に呼びかけ、伊那側15か村の協力を得て牛が通れる道を完成させました。以後、伊那からは大量の米が、木曽からは漆器などが牛によって運ばれました。

 出発地の萱ヶ平は奈良井川に沿って南に入る谷(川入)の一番奥の集落で現在も2軒が居住しています。かつては番所が置かれ賑わっていましたが、現在は数件の家屋が確認できる程度の寂しい集落でした。街道の木曽側は道もしっかりしており歩くのに問題はありませんが、伊那側は傾斜もきつく一人が通れる登山道といった状況です。明治44年(1911年)に国鉄中央線の全通により、往時の賑わいは失ったものの、昭和30年頃までは行き交う人がいたとのこと。峠は権兵衛の碑や歌碑があり、木曽駒ケ岳の登山口になっています。

 峠から少し入った所に伊那用水路跡(木曽山用水)がありました。いつの世も水は人間が生きるための生命線であり、かんがい用水に苦しむ伊那西部上部集落のために木曽谷から引水した歴史跡が残っていました。実現には水利権の問題があり相当苦労したとのこと。先人の知恵と苦労と努力に驚きました。


  


Posted by シオン120 at 10:38Comments(0)点の記・てくてく旅