2020年09月27日
谷街道てくてく旅(小布施宿~中野宿)
2 コース 小布施宿~東江部~西条~中野宿
3 所要時間 約3時間 (約9㎞)
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道標の文字は「小布施に至る 〇〇に至る(判読不可)」
庚申塔に刻まれた「右中野 左飯山」(寛政12年)
小布施を後に中野宿へ向かいました。中野市との境界の殿橋信号機交差点の北に「小布施に至る 〇〇に至る(判読不可)」の道標がありました。ようやく谷街道の面影に会え嬉しかったですが、中野市東江部丁字路信号機のたもとには、庚申塔に刻まれた「右中野 左飯山」を見つけました。江部の入り口に道標があることは本により判っていましたが、どこにあるのかどのような型なのかは知りませんでした。まさか庚申塔の左右に小さく刻まれた道標だとは知らず随分さがしましたが見ることができ喜びは格別でした。西條地区はここを右折しますが、西條神社横の数基の馬頭観音には往時の面影が残っており馬への慈愛を感じました。中野市は近世においては幕府領中野陣屋がおかれ維新当時には中野県庁が置かれました。いまでは中野陣屋の名残があるのは跡地の石垣程度です。中野は山ノ内町志賀高原の渋峠を越える草津道で上州と通じ、立ヶ花の渡しで北国街道と通じる物資輸送の中心地であり、九斎市が立てられて賑わっていました。
2020年09月24日
谷街道てくてく旅(須坂宿~小布施宿)
2 コース 須坂宿~松川~小布施宿
3 所要時間 約2時間 (約6㎞)
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「右 をぶせ道 左 大島道」
逢瀬神社北の分去れ「須坂道 山田道」の道標
(飯綱山、黒姫山、妙高山)
「蔵の街須坂」を後に中町を左折し春木町を下って小布施町をめざしました。春木町信号機の交差点には「右をぶせ 左大島」の道標があり、この先の松川(須坂市と小布施町の境)までは緩やかな坂が続きます。谷街道の面影は、春木町の道標と旭ヶ丘信号機交差点の馬頭観音くらいでしたが、松川周辺からの北信五岳・飯綱山、黒姫山、妙高山は、古今変わらぬ姿を見せており旅人に安らぎを与えてきたのだと、つい手を合わせてしまいました。松川橋は「信州の街道」本によれば、明治中ごろまで人馬が通るだけの木橋でしたが、橋には「谷街道」の文字がはっきりと刻まれています。逢瀬神社の北の分去れに「須坂道 山田道」の道標がありました。小布施の中心地の北斎館、高井鴻山記念館は平日にもかかわらず大勢の来訪者がおり賑わっていましたが、いい雰囲気だなあと感じたのは、栗の小径、陣屋小路の趣でした。谷街道は名前に似あわず台上の良い地形を通っている街道です。
2020年09月22日
谷街道てくてく旅(長野市綿内~須坂宿)
2 コース 長野市綿内~井上~須坂宿
3 所要時間 約2時間(約6㎞)
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谷街道は稲荷山を起点に、矢代宿、松代宿、川田宿を経て綿内(長野市綿内)追分から須坂宿、小布施宿、中野宿、飯山宿へと続く街道です。街道は古いが、呼称は新しく明治20年が初出とのことです。命名は長野県庁で街道名の由来は、千曲川の下流「市川谷」に通じることから命名されたとのことです。それまでは上高井地方では「松代道」、下高井地方では「北国脇往還」と呼ばれていました。
矢代から綿内までは北国街道東脇往還(松代道)旅で実施しているため、今回は綿内追分(旧河東線綿内駅そば)を出発点に須坂宿までを歩きました。街道はほとんどが国道のため面影は薄かったですが、鮎川橋を渡った北側に故西蓮寺の墓地があり、地蔵尊の由緒書きに谷街道の表玄関として賑わったと記載されていました。北に進むと「墨坂神社」があり境内の欅は見事な古木で鬱蒼とした社叢をなしていました。かつては北信一帯の大祭として賑わいをみせていたとのことです。須坂宿は蔵の町並みが見事で江戸時代、須坂藩主堀氏の館町として繁栄し、明治から昭和初期にかけて製糸業によって隆盛を極め、大壁造りの町屋などの町並みは美しかったです。