2020年09月27日 11:34
小布施を後に中野宿へ向かいました。中野市との境界の殿橋信号機交差点の北に「小布施に至る 〇〇に至る(判読不可)」の道標がありました。ようやく谷街道の面影に会え嬉しかったですが、中野市東江部丁字路信号機のたもとには、庚申塔に刻まれた「右中野 左飯山」を見つけました。江部の入り口に道標があることは本により判っていましたが、どこにあるのかどのような型なのかは知りませんでした。まさか庚申塔の左右に小さく刻まれた道標だとは知らず随分さがしましたが見ることができ喜びは格別でした。西條地区はここを右折しますが、西條神社横の数基の馬頭観音には往時の面影が残っており馬への慈愛を感じました。中野市は近世においては幕府領中野陣屋がおかれ維新当時には中野県庁が置かれました。いまでは中野陣屋の名残があるのは跡地の石垣程度です。中野は山ノ内町志賀高原の渋峠を越える草津道で上州と通じ、立ヶ花の渡しで北国街道と通じる物資輸送の中心地であり、九斎市が立てられて賑わっていました。